正文 第2节

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    抜いたらc私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったしc今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになって――どこかに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないのそれがわからないでcどうして私の面倒をみるなんて言うことができるの」

    僕は黙っていた。

    「私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。暗くてc冷たくてc混乱していてねえcどうしてあなたあのとき私と寝たりしたのよどうして私を放っておいてくれなかったのよ」

    我々はひどくしんとした松林の中を歩いていた。道の上には夏の終りに死んだ蝉の死骸がからからに乾いてちらばっていてcそれが靴の下でばりばりという音を立てた。僕と直子はまるで探しものでもしているみたいにc地面を見ながらゆっくりとその松林の中の道を歩いた。

    「ごめんなさい」と直子は言って僕の腕をやさしく握った。そして何度か首を振った。「あなたを傷つけるつもりはなかったの。私の言ったこと気にしないでね。本当にごめんなさい。私はただ自分に腹を立てていただけなの」

    「たぶん僕は君のことをまだ本当には理解してないんだと思う」と僕は言った。「僕は頭の良い人間じゃないしc物事を理解するのに時間がかかる。でももし時間さえあれば僕は君のことをきちんと理解するしcそうなれば僕は世界中の誰よりもきちんと理解できると思う」

    僕らはそこで立ちどまって静けさの中で耳を澄ませc僕は靴の先で蝉の死骸や松ぼっくりを転がしたりc松の枝のあいだから見える空を見あげたりしていた。直子は上着のポケットに両手をつっこんで何を見るともなくじっと考えごとをしていた。

    「ねえワタナベ君c私のこと好き」

    「もちろん」と僕は答えた。

    「じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる」

    「みっつ聞くよ」

    直子は笑って首を振った。「ふたつでいいのよ。ふたつで十分。ひとつはねcあなたがこうして会いに来てくれたことに対して私はすごく感謝してるんだということをわかってほしいの。とても嬉しいしcとても――救われるのよ。もしたとえそう見えなかったとしてもcそうなのよ」

    「また会いにくるよ」と僕は言った。「もうひとつは」

    「私のことを覚えていてほしいの。私が存在しcこうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる」

    「もちろんずっと覚えているよ」と僕は答えた。

    彼女はそのまま何も言わずに先に立って歩きはじめた。梢を抜けてくる秋の光が彼女の上着の肩の上でちらちらと踊っていた。また犬の声が聞こえたがcそれは前よりいくぶん我々の方に近づいているように思えた。直子は小さな丘のように盛りあがったところを上りc松林の外に出てcなだらかな坂を足速に下った。僕はその二c三歩あとをついて歩いた。

    「こっちにおいでよ。そのへんに井戸があるかもしれないよ」と僕は彼女の背中に声をかけた。

    直子は立ちどまってにっこりと笑いc僕の腕をそっとつかんだ。そして我々は残りの道を二人で並んで歩いた。

    「本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる」と彼女は小さな囁くような声で訊ねた。

    「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。「君のことを忘れられるわけがないよ」

    *

    それでも記憶は確実に遠ざかっていくしc僕はあまりに多くのことを既に忘れてしまった。こうして記憶を辿りながら文章を書いているとc僕はときどきひどく不安な気持になってしまう。ひょっとして自分はいちばん肝心な部分の記憶を失ってしまっているんじゃないかとふと思うからだ。僕の体の中に記憶の辺土とでも呼ぶべき暗い場所があってc大事な記憶は全部そこにつもってやわらかい泥と化してしまっているのではあるまいかcと。

    しかし何はともあれc今のところはそれが僕の手に入れられるものの全てなのだ。既に薄らいでしまいcそして今も刻一刻と薄らいでいくその不完全な記憶をしっかりと胸に抱きかかえc骨でもしゃぶるような気持で僕はこの文章を書きつづけている。直子との約束を守るためにはこうする以外に何の方法もないのだ。

    もっと昔c僕がまだ若くcその記憶がずっと鮮明だったころc僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。その最初の一行さえ出てくればcあとは何もかもすらすらと書いてしまえるだろうということはよくわかっていたのだけれどcその一行がどうしても出てこなかったのだ。全てがあまりにもくっきりとしすぎていてcどこから手をつければいいのかがわからなかったのだ。あまりにも克明な地図がc克明にすぎて時として役に立たないのと同じことだ。でも今はわかる。結局のところ―と僕は思う――文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほどc僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う。何故彼女が僕に向って「私を忘れないで」と頼んだのかcその理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこそ彼女は僕に向って訴えかけねばならなかったのだ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。

    そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。

    二

    昔々cといってもせいぜい二十年ぐらい前のことなのだけれどc僕はある学生寮に住んでいた。僕は十八でc大学に入ったばかりだった。東京のことなんて何ひとつ知らなかったし人暮しをするのも初めてだったのでc親が心配してその寮をみつけてきてくれた。そこなら食事もついているしcいろんな設備も揃っているしc世間知らずの十八の少年でもなんとか生きていけるだろうということだった。もちろん費用のこともあった。寮の費用は一人暮しのそれに比べて格段に安かった。なにしろ布団と電気スタンドさえあればあとは何ひとつ買い揃える必要がないのだ。僕としてはできることならアパートを借りて一人で気楽に暮したかったのだがc私立大学の入学金や授業料や月々の生活費のことを考えるとわがままは言えなかった。それに僕も結局は住むところなんてどこだっていいやと思っていたのだ。

    その寮は都内の見晴しの良い高台にあった。敷地は広くcまわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は少くとも百五十年ということだった。根もとに立って上を見あげると空はその緑の葉にすっぽりと覆い隠されてしまう。

    コンクリートの舗道はそのけやきの巨木を迂回するように曲りcそれから再び長い直線となって中庭を横切っている。中庭の両側には鉄筋コンクリート三階建ての棟がふたつc平行に並んでいる。窓の沢山ついた大きな建物でcアパートを改造した刑務所かあるいは刑務所を改造したアパートみたいな印象を見るものに与える。しかし決して不潔ではないしc暗い印象もない。開け放しになった窓からはラジオの音が聴こえる。窓のカーテンはどの部屋も同じクリーム色c日焼けがいちばん目立たない色だ。

    舗道をまっすぐ行った正面には二階建ての本部建物がある。一階には食堂と大きな浴場c二階には講堂といくつかの集会室cそれから何に使うのかは知らないけれど貴賓室まである。本部建物のとなりには三つ目の寮棟がある。これも三階建てだ。中庭は広くc緑の芝生の中ではスプリンクラーが太陽の光を反射させながらぐるぐると回っている。本部建物の裏手には野球とサッカーの兼用グラウンドとテニスコートが六面ある。至れり尽せりだ。

    この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さにあった。寮はあるきわめて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人によって運営されておりcその運営方針は――もちろん僕の目から見ればということだが――かなり奇妙に歪んだものだった。入寮案内のパンフレットと寮生規則を読めばそのだいたいのところはわかる。「教育の根幹を窮め国家にとって有為な人材の育成につとめる」cこれがこの寮創設の精神でありcそしてその精神に賛同した多くの財界人が私財を投じというのが表向きの顔なのだがcその裏のことは例によって曖昧模糊としている。正確なところは誰にもわからない。ただの税金対策だと言うものもいるしc売名行為だと言うものもいるしc寮設立という名目でこの一等地を詐欺同然のやりくちで手に入れたんだと言うものもいる。いやcもっともっと深い読みがあるんだと言うものもいる。彼の説によればこの寮の出身者で政財界に地下の閥を作ろうというのが設立者の目的なのだということであった。たしかに寮には寮生の中のトップエリートをあつめた特権的なクラブのようなものがあってc僕もくわしいことはよく知らないけれどc月に何度かその設立者をまじえて研究会のようなものを開いておりcそのクラブに入っている限り就職の心配はないということであった。そんな説のいったいどれが正しくてどれが間違っているのか僕には判断できないがcそれらの説は「とにかくここはうさん臭いんだ」という点で共通していた。

    いずれにせよ一九六八年の春から七〇年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたのだと訊かれても答えようがない。日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうがc偽善だろうが偽悪だろうがcそれほどたいした違いはないのだ。

    寮の一日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。もちろん国歌も流れる。スポーツニュースからマーチが切り離せないようにc国旗掲揚から国歌は切り離せない。国旗掲揚台は中庭のまん中にあってどの寮棟の窓からも見えるようになっている。

    国旗を掲揚するのは東棟僕の入っている寮だの寮長の役目だった。背が高くて目つきの鋭い六十前後の男だ。いかにも硬そうな髪にいくらか白髪がまじりc日焼けした首筋に長い傷あとがある。この人物は陸軍中野学校の出身という話だったがcこれも真偽のほどはわからない。そのとなりにはこの国旗掲揚を手伝う助手の如き立場の学生が控えている。この学生のことは誰もよく知らない。丸刈りでcいつも学生服を着ている。名前も知らないしcどの部屋に住んでいるのかもわからない。食堂でも風呂でも一度も顔をあわせたことがない。本当に学生なのかどうかさえわからない。まあしかし学生服を着ているからにはやはり学生なのだろう。そうとしか考えようがない。そして中野学校氏とは逆に背が低くc小太りで色が白い。この不気味きわまりない二人組が毎朝六時に寮の中庭に日の丸をあげるわけだ。

    僕は寮に入った当初cもの珍しさからわざわざ六時に起きてよくこの愛国的儀式を見物したものである。朝の六時cラジオの時報が鳴るのと殆んど同時に二人は中庭に姿を見せる。学生服はもちろんc学生服に黒の皮靴c中野学校はジャンパーに白の運動靴という格好である。学生服は桐の薄い箱を持っている。中野学校はソニーのポータブルテープレコーダーを下げている。中野学校がテープレコーダーを掲揚台の足もとに置く。学生服が桐の箱をあける。箱の中にはきちんと折り畳まれた国旗が入っている。学生服が中野学校にうやうやしく旗を差し出す。中野学校がロープに旗をつける。学生服がテープレコーダーのスイッチを押す。

    君が代。

    そして旗がするするとポールを上っていく。

    「さざれ石のお――」というあたりで旗はポールのまん中あたりc「まあで――」というところで頂上にのぼりつめる。そして二人は背筋をしゃんとのばして気をつけの姿勢をとりc国旗をまっすぐに見あげる。空が晴れてうまく風が吹いていればcこれはなかなかの光景である。

    夕方の国旗降下も儀式としてはだいたい同じような様式でとりおこなわれる。ただし順序は朝とはまったく逆になる。旗はするすると降りc桐の箱の中に収まる。夜には国旗は翻らない。

    どうして夜のあいだ国旗が降ろされてしまうのかc僕にはその理由がわからなかった。夜のあいだだってちゃんと国家は存続しているしc働いている人だって沢山いる。線路工夫やタクシーの運転手やバーのホステスや夜勤の消防士やビルの夜警やcそんな夜に働く人々が国家の庇護を受けることができないというのはcどうも不公平であるような気がした。でもそんなのは本当はそれほどたいしたことではないのかもしれない。誰もたぶんそんなことは気にもとめないのだろう。気にするのは僕くらいのものなのだろう。それに僕にしたところで何かの折りにふとそう思っただけでcそれを深く追求してみようなんていう気はさらさらなかったのだ。

    寮の部屋割は原則として一c二年生が二人部屋c三c四年生が一人部屋ということになっていた。二人部屋は六畳間をもう少し細長くしたくらいの広さでcつきあたりの壁にアルミ枠の窓がついていてc窓の前に背中あわせに勉強できるように机と椅子がセットされている。入口の左手に鉄製の二段ベッドがある。家具はどれも極端なくらい簡潔でがっしりとしたものだった。机とベッドの他にはロッカーがふたつc小さなコーヒーテーブルがひとつcそれに作りつけの棚があった。どう好意的に見ても詩的な空間とは言えなかった。大抵の部屋の棚にはトランジスタラジオとヘアドライヤーと電気ポットと電熱器とインスタントコーヒーとティーバッグと角砂糖とインスタントラーメンを作るための鍋と簡単な食器がいくつか並んでいる。しっくいの壁には「平凡パンチ」のビンナップかcどこかからはがしてきたポルノ映画のポスターが貼ってある。中には冗談で豚の交尾の写真を貼っているものもいたがcそういうのは例外中の例外でc殆んど部屋の壁に貼ってあるのは裸の女か若い女性歌手か女優の写真だった。机の上の本立てには教科書や辞書や小説なんかが並んでいた。

    男ばかりの部屋だから大体はおそろしく汚ない。ごみ箱の底にはかびのはえたみかんの皮がへばりついているしc灰皿がわりの空缶には吸殻が十センチもつもっていてcそれがくすぶるとコーヒーかビールかそんなものをかけて消すものだからcむっとするすえた匂いを放っている。食器はどれも黒ずんでいるしcいろんなところにわけのわからないものがこびりついているしc床にはインスタントラーメンのセロファンラップやらビールの空瓶やら何かのふたやら何やかやが散乱している。ほうきで掃いて集めてちりとりを使ってごみ箱に捨てるということを誰も思いつかないのだ。風が吹くと床からほこりがもうもうと舞いあがる。そしてどの部屋にもひどい匂いが漂っている。部屋によってその匂いは少しずつ違っているがc匂いを構成するものはまったく同じである。汗と体臭とごみだ。みんな洗濯物をどんどんベッドの下に放りこんでおくしc定期的に布団を干す人間なんていないから布団はたっぷりと汗を吸いこんで救いがたい匂いを放っている。そんなカオスの中からよく致命的な伝染病が発生しなかったものだと今でも僕は不思議に思っている。

    でもそれに比べると僕の部屋は死体安置所のように清潔だった。床にはちりひとつなくc窓ガラスにはくもりひとつなくc布団は週に一度干されc鉛はきちんと鉛立てに収まりcカーテンさえ月に一回は洗濯された。僕の同居人が病的なまでに清潔好きだったからだ。僕は他の連中に「あいつカーテンまで洗うんだぜ」と言ったが誰もそんなことは信じなかった。カーテンはときどき洗うものだということを誰も知らなかったのだ。カーテンというのは半永久的に窓にぶらさがっているものだと彼らは信じていたのだ。「

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