正文 第22节
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いたときよりずっと熱心に学んでいるわよcここで。よく勉強もしているしcそういうのって楽しいのよcすごく」
「夕ごはんのあとはいつも何するの」
「レイコさんとおしゃべりしたりc本を読んだりcレコードを聴いたりc他の人の部屋にいってゲームをしたりcそういうこと」と直子は言った。
「私はギターの練習をしたりc自叙伝を書いたり」とレイコさんは言った。
「自叙伝」
「冗談よ」とレイコさんは笑って言った。「そして私たち十時くらいに眠るの。どうc健康的な生活でしょうぐっすり眠れるわよ」
僕は時計を見た。九時少し前だった。「じゃあもうそろそろ眠いんじゃないですか」
「でも今日は大丈夫よc少しくら遅くなっても」と直子は言った。「久しぶりだからもっとお話がしたいもの。何かお話して」
「さっき一人でいるときにねc急にいろんな昔のこと思い出してたんだ」と僕は言った。「昔キズキと二人で君を見舞いに行ったときのこと覚えてる海岸の病院に。高校二年生の夏だっけな」
「胸の手術したときのことね」と直子はにっこり笑って言った。「よく覚えているわよ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来てくれたのよね。ぐじゃぐじゃに溶けたチョコレートを持って。あれ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みたいな気がするわね」
「そうだね。その時c君はたしかに長い詩を書いてたな」
「あの年頃の女の子ってみんな詩を書くのよ」とくすくす笑いながら直子は言った。「どうしてそんなこと急に思い出したの」
「わからないな。ただ思い出したんだよ。海風の匂いとか夾竹桃とかcそういうのがさcふと浮かんできたんだよ」と僕は言った。「ねえcキズキはあのときよく君の見舞いに行ったの」
「見舞いになんて殆んど来やしないわよ。そのことで私たち喧嘩したんだからcあとで。はじめに一度来てcそれからあなたと二人できてcそれっきりよ。ひどいでしょう最初にきたときだってなんだかそわそわしてc十分くらいで帰っていったわ。オレンジ持ってきてね。ぶつぶつよくわけのわからないこと言ってcそれからオレンジをむいて食べさせてくれてcまたぶつぶつわけのわからないこと言ってcぷいって帰っちゃったの。俺本当に病院って弱いんだとかなんとか言ってね」直子はそう言って笑った。「そういう面ではあの人はずっと子供のままだったのよ。だってそうでしょう病院の好きな人なんてどこにもいやしないわよ。だからこそ人は慰めにお見舞いに来るんじゃない。元気出しなさいって。そういうのがあの人ってよくわかってなかったのよね」
「でも僕と二人で病院に行ったときはそんなにひどくなかったよ。ごく普通にしてたもの」
「それはあなたの前だったからよ」と直子は言った。「あの人cあなたの前ではいつもそうだったのよ。弱い面は見せるまいって頑張ってたの。きっとあなたのことを好きだったのねcキズキ君は。だから自分の良い方の面だけを見せようと努力していたのよ。でも私と二人でいるときの彼はそうじゃないのよ。少し力を抜くのよね。本当は気分が変りやすい人なの。たとえばべらべらと一人でしゃべっりまくったかと思うと次の瞬間にはふさぎこんだりね。そういうことがしょっちょうあったわ。子供の頃からずっとそうだったの。いつも自分を変えようc向上させようとしていたけれど」
直子はソファーの上で脚を組みなおした。
「いつも自分を変えようc向上させようとしてcそれが上手くいかなくて苛々したり悲しんだりしていたの。とても立派なものや美しいものを持っていたのにc最後まで自分に自信が持てなくてcあれもしなくちゃcここも変えなくちゃなんてそんなことばかり考えていたのよ。可哀そうなキズキ君」
「でももし彼が自分の良い面だけを見せようと努力していたんだとしたらcその努力は成功していたみたいだね。だって僕は彼の良い面しか見えなかったもの」
直子は微笑んだ。「それを聞いたら彼きっと喜ぶわね。あなたは彼のたった一人の友だちだったんだもの」
「そしてキズキも僕にとってたった一人の友だちだったんだよ」と僕は言った。「その前にもそのあとにも友だちと呼べそうな人間なんて僕にはいないんだ」
「だから私cあなたとキズキ君と三人でいるのけっこう好きだったのよ。そうすると私キズキ君の良い面だけ見ていられるでしょう。そうすると私cすごく気持が楽になったの。安心していられるの。だから三人でいるの好きだったの。あなたがどう思っていたのかは知らないけれど」
「僕は君がどう思っているのか気になってたな」と僕は言って小さく首を振った。
「でもねc問題はそういうことがいつまでもつづくわけはないってことだったのよ。そういう小さな輪みたいなものが永遠に維持されるわけはないのよ。それはキズキ君にもわかっていたしc私にもわかっていたしcあなたにもわかっていたのよ。そうでしょう」
僕は肯いた。
「でお正直言ってc私はあの人の弱い面だって大好きだったのよ。良い面と同じくらい好きだったの。だって彼にはずるさとか意地わるさとか全然なかったのよ。ただ弱いだけなの。でも私がそう言っても彼は信じなかったわ。そしていつもこう言うのよ。直子cそれは僕と君が三つのときからずっと一緒にいて僕のことを知りすぎているせいだ。だから何が欠点で何が長所かみわけがつかなくていろんなものをごたまぜしてるんだってね。彼はいつもそう言ったわ。でもどう言われても私c彼のことが好きだったしc彼以外の人になんて殆んど興味すら持てなかったのよ」
直子は僕の方を向いて哀しそうに微笑んだ。
「私たちは普通の男女の関係とはずいぶん違ってたのよ。何かどこかの部分でがくっつきあっているようなcそんな関係だったの。あるとき遠くに離れていても特殊な引力によってまたもとに戻ってくっついてしまうようなね。だから私とキズキ君が恋人のような関係になったのはごく自然なことだったの。考慮とか選択の余地のないことだったの。私たちは十二の歳にはキスしてc十三の歳にはもうベッティングしたの。私が彼の部屋に行くかc彼が私の部屋に遊びにくるかしてcそれで彼のを手で処理してあげて。でもねc私は自分たちが早熟だなんてちっとも思わなかったわ。そんなの当然のことだと思っていたの。彼が私のやら性器やらをいじりたいんならそんなのいじったって全然かまわないしc彼が精液を出したいんならそれを手伝ってあげるのも全然かまわなかったのよ。だからもし誰かがそのことで私たちを非難したとしたらc私きっとびっくりするか腹を立てたと思うわ。だって私たち間違ったことやってたわけじゃないんだもの。当然やるはずのことをやってただけのことなのよ。私たちcお互いの体を隅から隅まで見せ合ってきたしcまるでお互いの体を共有しているようなcそんな感じだったのよ。でも私たちしばらくはそれより先にはいかないようにしていたの。妊娠するのは怖かったしcどうすれば避妊できるのかその頃はよくわからなかったし。とにかく私たちはそんな具合に成長してきたのよ。二人一組で手をとりあって。普通の成長期の子供たちが経験するような性の重圧とかエゴの膨張の苦しみみたいなものを殆んど経験することなくね。私たちさっきも言ったように性に対しては一貫してオープンだったしc自我にしたってお互いで吸収しあったりわけあったりすることが可能だったからとくに強く意識することもなかったし。私の言ってる意味わかる」
「わかると思う」と僕は言った。
「私たち二人は離れることができない関係だったのよ。だからもしキズキ君が生きていたらc私たちたぶん一緒にいてc愛し合っていてcそして少しずつ不幸になっていたと思うわ」
「どうして」
直子は指で何度か髪をすいた。もう髪どめを外していたのでc下を向くと髪が落ちて彼女の顔を隠した。
「たぶん私たちc世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」と直子は顔を上げて言った。「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったからcそのつけが今まわってきてるのよ。だからキズキ君はああなっちゃったしc今私はこうしてここにいるのよ。私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなものだったのよ。おなかがすけばバナナを食べc淋しくなれば二人で抱き合って眠ったの。でもそんなこといつまでもつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくしc社会の中に出ていかなくちゃならないし。だからあなたは私たちにとっては重要な存在だったのよ。あなたは私たちと外の世界を結ぶリンクのような意味を持っていたのよ。私たちはあなたを仲介して外の世界にうまく同化しようと私たちなりに努力していたのよ。結局はうまくいかなかったけれど」
僕は肯いた。
「でも私たちがあなたを利用したなんて思わないでね。キズキ君は本当にあなたのことが好きだったしcたまたま私たちにとってはあなたとの関りが最初の他者との関りだったのよ。そしてそれは今でもつづいているのよ。キズキ君は死んでもういなくなっちゃったけれどcあなたは私と外の世界を結びづける唯一のリンクんなのよc今でも。そしてキズキ君があなたのことを好きだったようにc私もあなたのことが好きなのよ。そしてそんなつもりはまったくなかったんだけれどc結果的には私たちあなたの心を傷つけてしまったのかもしれないわね。そんなことになるかもしれないなんて思いつきもしなかったのよ。
直子はまた下を向いて黙った。
「どうcココアでも飲まない」とレイコさんが言った。
「ええc飲みたいわcとても」と直子は言った。
「僕は持ってきたブランディーを飲みたいんだけどかまいませんか」と僕は訊いた。
「どうぞどうぞ」とレイコさんは言った。「私にもひとくちくれる」
「もちろんいいですよ」と僕は笑って言った。
レイコさんはグラスをふたつ持って来てc僕と彼女はそれで乾杯した。それからレイコさんはキッチンに行ってココアを作った。
「もう少し明るい話をしない」と直子が言った。
でも僕には明るい話の持ち合わせがなかった。突撃隊がいてくれたらなあと僕は残念に思った。あいつさえいれば次々にエピソードが生まれたcそしてその話さえしていればみんなが楽しい気持になれるのにcと。仕方がないので僕は寮の中でみんながどれほど不潔な生活をしているかについて延々としゃべった。あまりにも汚くて話してるだけで嫌な気分になったがc二人にはそういうのが珍しいらしく笑い転げて聴いていた。それからレイコさんがいろんな精神病患者の物真似をした。これも大変におかしかった。十一時になって直子が眠そうな目になってきたのでcレイコさんがソファーの背を倒してベッドにしcシーツと毛布と枕をセットしてくれた。
「夜中にレイプしにくるのはいいけど相手まちがえないでね」とレイコさんが言った。「左側のベッドで寝てるしわのない体が直子のだから」
「嘘よ。私右側だわ」と直子は言った
「ねえc明日は午後のカリキュラムをいくつかパスできるようにしておいたからc私たちピクニックに行きましょうよ。近所にとてもいいところがあるのよ」とレイコさんは言った。
「いいですね」と僕は言った。
彼女たちがかわりばんこに洗面所で歯をみがき寝室に引き上げてしまうとc僕はブランディーを少し飲みcソファーベッドに寝転んで今日いちにちの出来事を朝から順番に辿ってみた。なんだかとても長い一日みたいに思えた。部屋の中はあいかわらず月の光に白く照らされていた。直子とレイコさんが眠っている寝室はひっそりとしてc物音らしきものは殆んど何も聞こえなかった。ただ時折ベッドの小さな軋みが聞こえるだけだった。目を閉じるとc暗闇の中でちらちらとした微小な図形が舞いc耳もとにレイコさんの弾くギターの残響を感じたがcしかしそれも長くはつづかないかった。眠りがやってきてc温かい泥の中に僕を運んでいった。そして僕は柳の夢を見た。山道の両側にずっと柳の木が並んでいた。信じられないくらいの数の柳だった。けっこう強い風が吹いていたがc柳の枝はそよとも揺れなかった。どうしてだろうと思ってみるとc柳の枝の一本一本に小さい鳥がしがみついているのが見えた。その重みで柳の枝が揺れないのだ。僕は棒切れを持って近くの枝を叩いてみた。鳥を追い払って柳の枝を揺らそうとしたのだ。でも鳥は飛びたたなかった。飛び立つかわりに鳥たちは鳥のかたちをした金属になってどさっどさっと音を立てて地面に落ちた。
目を覚ましたときc僕はまるでその夢の続きを見ているような気分だった。部屋の中は月のあかりでほんのりと白く光っていた。僕は反射的に床の上の鳥のかたちをした金属を探し求めたがcもちろんそんなものはどこにもなかった。直子が僕のベッドの足もとにぽつんと座ってc窓の外をじっと見ているだけだった。彼女は膝をふたつに折ってc飢えた孤児のようにその上に顎を乗せていた。僕は時間を調べようと思って枕もとの腕時計を探したがcそれは置いたはずの場所にはなかった。月の光の具合からするとたぶん二時か三時だろうと僕は見当をつけた。激しい喉の渇きを感じたがc僕はそのままじっと直子の様子を見ていることにした。直子はさっきと同じブルーのガウンのようなものを着てc髪の片側を例の蝶のかたちをしたピンでとめていた。そのせいで彼女のきれいな額がくっきりと月光に照らされていた。妙だなと僕は思った。彼女は寝る前には髪留めを外していたのだ。
直子は同じ姿勢のままびくりとも動かなかったc彼女はまるで月光に引き寄せられる夜の小動物にように見えた。月光の角度のせいでc彼女の唇の影が誇張されていた。そのいかにも傷つきやすそうな影はc彼女の心臓の鼓動かあるいは心の動きにあわせてcぴくぴくと細かく揺れていた。それはあたかも夜の闇に向って音のない言葉を囁きかけるかのように。
僕は喉の乾きを癒すために唾を飲み込んだがc夜の静寂の中でその音はひどく大きく響いた。すると直子はcまるでその音が何かの合図だとでも言うようにすっと立ち上がりcかすかな衣ずれの音をさせながら僕の枕もとの床に膝をつきc僕の目をじっとのぞきこんだ。僕も彼女の目を見たけれどcその目は何も語りかけていなかった。瞳は不自然なくらい澄んでいてc向う側の世界がすけて見えそうなほどだったがcそれだけ見つめてもその奥に何かを見つけることはできなかった。僕の顔と彼女の顔はほんの三十センチくらいしか離れていなかったけれどc彼女は何光年も遠くにいるように感じられた。
僕は手をのばして彼女に触れようとするとc直子はずっとうしろに身を引いた。唇が少しだけ震えた。それから直子は両手を上にあげてゆっくりとガウンのボタンを外しはじめた。ボタンは全部で七つあった。僕は彼女の細い美しい指が順番にボタンを外していくのをcまるで夢のつづきを見ているような気持で眺めていた。その小さな七つの白いボタンが全部外れてしまうとc直子は虫が脱皮するときのように腰の方にガウンをするりと下ろして脱ぎ捨てc裸になった。ガウンの下にc直子は何もつけていなかった。彼女が身につけているのは蝶のかたちをしたヘアピンだけだった。直子はガウンを脱ぎ捨ててしまうとc床に膝をついたまま僕を見ていた。やわらかな月の光に照らされた直子の体はまだ生まれ落ちて間のない新しいののようにつややかで痛々しかった。彼女が少し体を動かすと――それはほんの僅かな動きなのに――月の光のあたる部分が微妙に移動しc体を染める影のかたちが変った。丸く盛り上がったやc小さな乳首やcへそのくぼみやc腰骨や陰毛のつくり
「夕ごはんのあとはいつも何するの」
「レイコさんとおしゃべりしたりc本を読んだりcレコードを聴いたりc他の人の部屋にいってゲームをしたりcそういうこと」と直子は言った。
「私はギターの練習をしたりc自叙伝を書いたり」とレイコさんは言った。
「自叙伝」
「冗談よ」とレイコさんは笑って言った。「そして私たち十時くらいに眠るの。どうc健康的な生活でしょうぐっすり眠れるわよ」
僕は時計を見た。九時少し前だった。「じゃあもうそろそろ眠いんじゃないですか」
「でも今日は大丈夫よc少しくら遅くなっても」と直子は言った。「久しぶりだからもっとお話がしたいもの。何かお話して」
「さっき一人でいるときにねc急にいろんな昔のこと思い出してたんだ」と僕は言った。「昔キズキと二人で君を見舞いに行ったときのこと覚えてる海岸の病院に。高校二年生の夏だっけな」
「胸の手術したときのことね」と直子はにっこり笑って言った。「よく覚えているわよ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来てくれたのよね。ぐじゃぐじゃに溶けたチョコレートを持って。あれ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みたいな気がするわね」
「そうだね。その時c君はたしかに長い詩を書いてたな」
「あの年頃の女の子ってみんな詩を書くのよ」とくすくす笑いながら直子は言った。「どうしてそんなこと急に思い出したの」
「わからないな。ただ思い出したんだよ。海風の匂いとか夾竹桃とかcそういうのがさcふと浮かんできたんだよ」と僕は言った。「ねえcキズキはあのときよく君の見舞いに行ったの」
「見舞いになんて殆んど来やしないわよ。そのことで私たち喧嘩したんだからcあとで。はじめに一度来てcそれからあなたと二人できてcそれっきりよ。ひどいでしょう最初にきたときだってなんだかそわそわしてc十分くらいで帰っていったわ。オレンジ持ってきてね。ぶつぶつよくわけのわからないこと言ってcそれからオレンジをむいて食べさせてくれてcまたぶつぶつわけのわからないこと言ってcぷいって帰っちゃったの。俺本当に病院って弱いんだとかなんとか言ってね」直子はそう言って笑った。「そういう面ではあの人はずっと子供のままだったのよ。だってそうでしょう病院の好きな人なんてどこにもいやしないわよ。だからこそ人は慰めにお見舞いに来るんじゃない。元気出しなさいって。そういうのがあの人ってよくわかってなかったのよね」
「でも僕と二人で病院に行ったときはそんなにひどくなかったよ。ごく普通にしてたもの」
「それはあなたの前だったからよ」と直子は言った。「あの人cあなたの前ではいつもそうだったのよ。弱い面は見せるまいって頑張ってたの。きっとあなたのことを好きだったのねcキズキ君は。だから自分の良い方の面だけを見せようと努力していたのよ。でも私と二人でいるときの彼はそうじゃないのよ。少し力を抜くのよね。本当は気分が変りやすい人なの。たとえばべらべらと一人でしゃべっりまくったかと思うと次の瞬間にはふさぎこんだりね。そういうことがしょっちょうあったわ。子供の頃からずっとそうだったの。いつも自分を変えようc向上させようとしていたけれど」
直子はソファーの上で脚を組みなおした。
「いつも自分を変えようc向上させようとしてcそれが上手くいかなくて苛々したり悲しんだりしていたの。とても立派なものや美しいものを持っていたのにc最後まで自分に自信が持てなくてcあれもしなくちゃcここも変えなくちゃなんてそんなことばかり考えていたのよ。可哀そうなキズキ君」
「でももし彼が自分の良い面だけを見せようと努力していたんだとしたらcその努力は成功していたみたいだね。だって僕は彼の良い面しか見えなかったもの」
直子は微笑んだ。「それを聞いたら彼きっと喜ぶわね。あなたは彼のたった一人の友だちだったんだもの」
「そしてキズキも僕にとってたった一人の友だちだったんだよ」と僕は言った。「その前にもそのあとにも友だちと呼べそうな人間なんて僕にはいないんだ」
「だから私cあなたとキズキ君と三人でいるのけっこう好きだったのよ。そうすると私キズキ君の良い面だけ見ていられるでしょう。そうすると私cすごく気持が楽になったの。安心していられるの。だから三人でいるの好きだったの。あなたがどう思っていたのかは知らないけれど」
「僕は君がどう思っているのか気になってたな」と僕は言って小さく首を振った。
「でもねc問題はそういうことがいつまでもつづくわけはないってことだったのよ。そういう小さな輪みたいなものが永遠に維持されるわけはないのよ。それはキズキ君にもわかっていたしc私にもわかっていたしcあなたにもわかっていたのよ。そうでしょう」
僕は肯いた。
「でお正直言ってc私はあの人の弱い面だって大好きだったのよ。良い面と同じくらい好きだったの。だって彼にはずるさとか意地わるさとか全然なかったのよ。ただ弱いだけなの。でも私がそう言っても彼は信じなかったわ。そしていつもこう言うのよ。直子cそれは僕と君が三つのときからずっと一緒にいて僕のことを知りすぎているせいだ。だから何が欠点で何が長所かみわけがつかなくていろんなものをごたまぜしてるんだってね。彼はいつもそう言ったわ。でもどう言われても私c彼のことが好きだったしc彼以外の人になんて殆んど興味すら持てなかったのよ」
直子は僕の方を向いて哀しそうに微笑んだ。
「私たちは普通の男女の関係とはずいぶん違ってたのよ。何かどこかの部分でがくっつきあっているようなcそんな関係だったの。あるとき遠くに離れていても特殊な引力によってまたもとに戻ってくっついてしまうようなね。だから私とキズキ君が恋人のような関係になったのはごく自然なことだったの。考慮とか選択の余地のないことだったの。私たちは十二の歳にはキスしてc十三の歳にはもうベッティングしたの。私が彼の部屋に行くかc彼が私の部屋に遊びにくるかしてcそれで彼のを手で処理してあげて。でもねc私は自分たちが早熟だなんてちっとも思わなかったわ。そんなの当然のことだと思っていたの。彼が私のやら性器やらをいじりたいんならそんなのいじったって全然かまわないしc彼が精液を出したいんならそれを手伝ってあげるのも全然かまわなかったのよ。だからもし誰かがそのことで私たちを非難したとしたらc私きっとびっくりするか腹を立てたと思うわ。だって私たち間違ったことやってたわけじゃないんだもの。当然やるはずのことをやってただけのことなのよ。私たちcお互いの体を隅から隅まで見せ合ってきたしcまるでお互いの体を共有しているようなcそんな感じだったのよ。でも私たちしばらくはそれより先にはいかないようにしていたの。妊娠するのは怖かったしcどうすれば避妊できるのかその頃はよくわからなかったし。とにかく私たちはそんな具合に成長してきたのよ。二人一組で手をとりあって。普通の成長期の子供たちが経験するような性の重圧とかエゴの膨張の苦しみみたいなものを殆んど経験することなくね。私たちさっきも言ったように性に対しては一貫してオープンだったしc自我にしたってお互いで吸収しあったりわけあったりすることが可能だったからとくに強く意識することもなかったし。私の言ってる意味わかる」
「わかると思う」と僕は言った。
「私たち二人は離れることができない関係だったのよ。だからもしキズキ君が生きていたらc私たちたぶん一緒にいてc愛し合っていてcそして少しずつ不幸になっていたと思うわ」
「どうして」
直子は指で何度か髪をすいた。もう髪どめを外していたのでc下を向くと髪が落ちて彼女の顔を隠した。
「たぶん私たちc世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」と直子は顔を上げて言った。「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったからcそのつけが今まわってきてるのよ。だからキズキ君はああなっちゃったしc今私はこうしてここにいるのよ。私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなものだったのよ。おなかがすけばバナナを食べc淋しくなれば二人で抱き合って眠ったの。でもそんなこといつまでもつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくしc社会の中に出ていかなくちゃならないし。だからあなたは私たちにとっては重要な存在だったのよ。あなたは私たちと外の世界を結ぶリンクのような意味を持っていたのよ。私たちはあなたを仲介して外の世界にうまく同化しようと私たちなりに努力していたのよ。結局はうまくいかなかったけれど」
僕は肯いた。
「でも私たちがあなたを利用したなんて思わないでね。キズキ君は本当にあなたのことが好きだったしcたまたま私たちにとってはあなたとの関りが最初の他者との関りだったのよ。そしてそれは今でもつづいているのよ。キズキ君は死んでもういなくなっちゃったけれどcあなたは私と外の世界を結びづける唯一のリンクんなのよc今でも。そしてキズキ君があなたのことを好きだったようにc私もあなたのことが好きなのよ。そしてそんなつもりはまったくなかったんだけれどc結果的には私たちあなたの心を傷つけてしまったのかもしれないわね。そんなことになるかもしれないなんて思いつきもしなかったのよ。
直子はまた下を向いて黙った。
「どうcココアでも飲まない」とレイコさんが言った。
「ええc飲みたいわcとても」と直子は言った。
「僕は持ってきたブランディーを飲みたいんだけどかまいませんか」と僕は訊いた。
「どうぞどうぞ」とレイコさんは言った。「私にもひとくちくれる」
「もちろんいいですよ」と僕は笑って言った。
レイコさんはグラスをふたつ持って来てc僕と彼女はそれで乾杯した。それからレイコさんはキッチンに行ってココアを作った。
「もう少し明るい話をしない」と直子が言った。
でも僕には明るい話の持ち合わせがなかった。突撃隊がいてくれたらなあと僕は残念に思った。あいつさえいれば次々にエピソードが生まれたcそしてその話さえしていればみんなが楽しい気持になれるのにcと。仕方がないので僕は寮の中でみんながどれほど不潔な生活をしているかについて延々としゃべった。あまりにも汚くて話してるだけで嫌な気分になったがc二人にはそういうのが珍しいらしく笑い転げて聴いていた。それからレイコさんがいろんな精神病患者の物真似をした。これも大変におかしかった。十一時になって直子が眠そうな目になってきたのでcレイコさんがソファーの背を倒してベッドにしcシーツと毛布と枕をセットしてくれた。
「夜中にレイプしにくるのはいいけど相手まちがえないでね」とレイコさんが言った。「左側のベッドで寝てるしわのない体が直子のだから」
「嘘よ。私右側だわ」と直子は言った
「ねえc明日は午後のカリキュラムをいくつかパスできるようにしておいたからc私たちピクニックに行きましょうよ。近所にとてもいいところがあるのよ」とレイコさんは言った。
「いいですね」と僕は言った。
彼女たちがかわりばんこに洗面所で歯をみがき寝室に引き上げてしまうとc僕はブランディーを少し飲みcソファーベッドに寝転んで今日いちにちの出来事を朝から順番に辿ってみた。なんだかとても長い一日みたいに思えた。部屋の中はあいかわらず月の光に白く照らされていた。直子とレイコさんが眠っている寝室はひっそりとしてc物音らしきものは殆んど何も聞こえなかった。ただ時折ベッドの小さな軋みが聞こえるだけだった。目を閉じるとc暗闇の中でちらちらとした微小な図形が舞いc耳もとにレイコさんの弾くギターの残響を感じたがcしかしそれも長くはつづかないかった。眠りがやってきてc温かい泥の中に僕を運んでいった。そして僕は柳の夢を見た。山道の両側にずっと柳の木が並んでいた。信じられないくらいの数の柳だった。けっこう強い風が吹いていたがc柳の枝はそよとも揺れなかった。どうしてだろうと思ってみるとc柳の枝の一本一本に小さい鳥がしがみついているのが見えた。その重みで柳の枝が揺れないのだ。僕は棒切れを持って近くの枝を叩いてみた。鳥を追い払って柳の枝を揺らそうとしたのだ。でも鳥は飛びたたなかった。飛び立つかわりに鳥たちは鳥のかたちをした金属になってどさっどさっと音を立てて地面に落ちた。
目を覚ましたときc僕はまるでその夢の続きを見ているような気分だった。部屋の中は月のあかりでほんのりと白く光っていた。僕は反射的に床の上の鳥のかたちをした金属を探し求めたがcもちろんそんなものはどこにもなかった。直子が僕のベッドの足もとにぽつんと座ってc窓の外をじっと見ているだけだった。彼女は膝をふたつに折ってc飢えた孤児のようにその上に顎を乗せていた。僕は時間を調べようと思って枕もとの腕時計を探したがcそれは置いたはずの場所にはなかった。月の光の具合からするとたぶん二時か三時だろうと僕は見当をつけた。激しい喉の渇きを感じたがc僕はそのままじっと直子の様子を見ていることにした。直子はさっきと同じブルーのガウンのようなものを着てc髪の片側を例の蝶のかたちをしたピンでとめていた。そのせいで彼女のきれいな額がくっきりと月光に照らされていた。妙だなと僕は思った。彼女は寝る前には髪留めを外していたのだ。
直子は同じ姿勢のままびくりとも動かなかったc彼女はまるで月光に引き寄せられる夜の小動物にように見えた。月光の角度のせいでc彼女の唇の影が誇張されていた。そのいかにも傷つきやすそうな影はc彼女の心臓の鼓動かあるいは心の動きにあわせてcぴくぴくと細かく揺れていた。それはあたかも夜の闇に向って音のない言葉を囁きかけるかのように。
僕は喉の乾きを癒すために唾を飲み込んだがc夜の静寂の中でその音はひどく大きく響いた。すると直子はcまるでその音が何かの合図だとでも言うようにすっと立ち上がりcかすかな衣ずれの音をさせながら僕の枕もとの床に膝をつきc僕の目をじっとのぞきこんだ。僕も彼女の目を見たけれどcその目は何も語りかけていなかった。瞳は不自然なくらい澄んでいてc向う側の世界がすけて見えそうなほどだったがcそれだけ見つめてもその奥に何かを見つけることはできなかった。僕の顔と彼女の顔はほんの三十センチくらいしか離れていなかったけれどc彼女は何光年も遠くにいるように感じられた。
僕は手をのばして彼女に触れようとするとc直子はずっとうしろに身を引いた。唇が少しだけ震えた。それから直子は両手を上にあげてゆっくりとガウンのボタンを外しはじめた。ボタンは全部で七つあった。僕は彼女の細い美しい指が順番にボタンを外していくのをcまるで夢のつづきを見ているような気持で眺めていた。その小さな七つの白いボタンが全部外れてしまうとc直子は虫が脱皮するときのように腰の方にガウンをするりと下ろして脱ぎ捨てc裸になった。ガウンの下にc直子は何もつけていなかった。彼女が身につけているのは蝶のかたちをしたヘアピンだけだった。直子はガウンを脱ぎ捨ててしまうとc床に膝をついたまま僕を見ていた。やわらかな月の光に照らされた直子の体はまだ生まれ落ちて間のない新しいののようにつややかで痛々しかった。彼女が少し体を動かすと――それはほんの僅かな動きなのに――月の光のあたる部分が微妙に移動しc体を染める影のかたちが変った。丸く盛り上がったやc小さな乳首やcへそのくぼみやc腰骨や陰毛のつくり