正文 第19节

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    彼女はもう一曲バッハの小品を弾いた。組曲の中の何かだ。ロウソクの灯を眺めcワインを飲みながらレイコさんの弾くバッハに耳を傾けているとc知らず知らずのうちに気持ちが安らいできた。バッハが終るとc直子はレイコさんにビートルスのものを弾いてほしいと頼んだ。

    「リクエストタイム」とレイコさんは片目を細めて僕に言った。「直子が来てから私は来る日も来る日もビートルスのものばかり弾かされてるのよ。まるで哀れた音楽奴隷のように」

    彼女はそう言いながらミシェルをとても上手く弾いた。

    「良い曲ね。私cこれ大好きよ」とレイコさんは言ってワインをひとくちのみc煙草を吸った。

    それから彼女はノーホエアマンを弾きcジェリアを弾いた。ときどきギターを弾きながら目を閉じて首を振った。そしてまたワインを飲みc煙草を吸った。

    「ノルウェイの森を弾いて」と直子は言った。

    レイコさんは台所からまねき猫の形をした貯金箱を持ってきてc直子が財布から百円玉を出してそこに入れた。

    「なんですかcそれ」と僕は訊いた。

    「私がノルウェイの森をリクエストするときはここに百円入れるのがきまりなの」と直子が言った。「この曲はいちばん好きだからcとくにそうしてるの。心してリクエストするの」

    「そしてそれが私の煙草代になるわけね」

    レイコさんは指をよくほぐしてからノルウェイの森を弾いた。彼女の弾く曲には心がこもっていてcしかもそれでいて感情に流れすぎるということがなかった。僕もポッケトから百円玉を出して貯金箱に入れた。

    「ありがとう」とレイコさんは言ってにっこり笑った。

    「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだがはわからないけどc自分が深い森の中で迷っているような気になるの」と直子は言った。「一人ぼっちで寒くてcそして暗くってc誰も助けに来てくれなくて。だから私がリクエストしない限りc彼女はこの曲を弾かないの」

    「なんだかカサブランカみたいな話よね」とレイコさんは笑って言った。

    そのあとでレイコさんはボサノヴァを何曲を弾いた。そのあいだ僕は直子を眺めていた。彼女は手紙にも自分で書いていたように以前より健康そうになりcよく日焼けしc運動と屋外作業のせいでしまった体つきになっていた。湖のように深く澄んだ瞳と恥ずかしそうに揺れる小さな唇だけは前と変りなったけれどc全体としてみると彼女の美しさは成熟した女性のそれへと変化していた。以前の彼女の美しさのかげに見えかくれしていたある種の鋭さ――人をふとひやりとさせるあの薄い刃物のような鋭さ――はずっとうしろの方に退きcそのかわりに優しく慰撫するような独得の静けさがまわりに漂っていた。そんな美しさは僕の心を打った。そしてたった半年間のあいだに一人の女性がこれほど大きく変化してしまうのだという事実に驚愕の念を覚えた。直子の新しい美しさは以前のそれと同じようにあるいはそれ以上に僕をひきつけたがcそれでも彼女が失ってしまったもののことを考える残念だなという気がしないでもなかった。あの思春期の少女独特のcそれ自体がどんどん一人歩きしてしまうような身勝手な美しさとでも言うべきものはもう彼女には二度と戻ってはこないのだ。

    直子は僕の生活のことを知りたいと言ったc僕は大学のストのことを話しcそれから永沢さんのことを話した。僕が直子に永沢さんの話をしたのはそれが初めてだった。彼の奇妙な人間性と独自の思考システムと偏ったモラリティーについて正確に説明するのは至難の業だったがc直子は最後には僕のいわんとすることをだいたい理解してくれた。僕は自分が彼と二人で女の子を漁りに行くことは伏せておいた。ただあの寮において親しく付き合っている唯一の男はこういうユニークな人物なのだと説明しただけだった。そのあいだレイコさんはギターを抱えてcもう一度さっきのフーガの練習をしていた。彼女はあいかわらずちょっとしたあいまを見つけてはワインを飲んだり煙草をふかしたりしていた。

    「不思議な人みたいね」と直子は言った。

    「不思議な男だよ」と僕は言った。

    「でもその人のこと好きなのね」

    「よくわからないね」と僕は言った。「でもたぶん好きというんじゃないだろうな。あの人は好きになるとかならないとかcそういう範疇の存在じゃないんだよ。そして本人もそんなのを求めてるわけじゃないんだ。そういう意味ではあの人はとても正直な人だしc胡麻化しのない人だしc非常にストイックな人だね」

    「そんなに沢山女性と寝てストイックっていうのも変な話ね」と直子は笑って言った。「何人と寝たんだって」

    「たぶんもう八十人くらいは行ってるんじゃないかな」と僕は言った。「でも彼の場合相手の女の数が増えれば増えるほどcそのひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まっていくわけだしcそれがすなわちあの男の求めていることだと思うんだ」

    「それがストイックなの」と直子が訊ねた。

    「彼にとってはね」

    直子はしばらく僕の言ったことについて考えていた。「その人c私よりずっと頭がおかしいと思うわ」と彼女は言った。

    「僕もそう思う」と僕は言った。「でも彼の場合は自分の中の歪みを全部系統だてて理論化しちゃったんだ。ひどく頭の良い人だからね。あの人をここに連れてきてみなよc二日で出ていっちゃうね。これも知ってるcあれももう知ってるcうんもう全部わかったってさ。そういう人なんだよ。そういう人は世間では尊敬されるのさ」

    「きっと私c頭悪いのね」と直子は言った。「ここのことまだよくわかんないもの。私自身のことがまだよくわかんないように」

    「頭が悪いんじゃなくてc普通なんだよ。僕にも僕自身のことでわからないことはいっぱいある。それは普通の人だもの」

    直子は両脚をソファーの上にのでc折りまげてその上に顎をのせた。「ねえcワタナベ君のことをもっと知りたいわ」と彼女は言った。

    「普通の人間だよ。普通の家に生まれてc普通に育ってc普通の顔をしてc普通の成績でc普通のことを考えている」と僕は言った。

    「ねえc自分のこと普通の人間だという人間を信用しちゃいけないと書いていたのはあなたの大好きなスコットフィッツジェラルドじゃなかったかしらあの本c私あなたに借りて読んだのよ」と直子はいたずらっぽく笑いながら言った。

    「たしかに」と僕は認めた。「でも僕は別に意識的にそうきめつけてるんじゃなくてさc本当に心からそう思うんだよ。自分が普通の人間だって。君は僕の中に何か普通じゃないものがみつけられるかい」

    「あたりまえでしょう」と直子はあきれたように言った。「あななそんなこともわからないのそうじゃなければどうして私があなたと寝たのよお酒に酔払って誰でもいいから寝ちゃえと思ってあなたとそうしちゃったと考えてるの」

    「いやcもちろんそんなことは思わないよ」と僕は言った。

    直子は自分の足の先を眺めながらずっと黙っていた。僕も何を言っていいのかわからなくてワインを飲んだ。

    「ワタナベ君cあなた何人くらいの女の人と寝たの」と直子がふと思いついたように小さな声で訊いた。

    「八人か九人」と僕は正直に答えた。

    レイコさんが練習を止めてギターをはたと膝の上に落とした。「あなたまだ二十歳になってないでしょういったいどういう生活してんのよcそれ」

    直子は何も言わずにその澄んだ目でじっと僕を見ていた。僕はレイコさんに最初の女の子と寝て彼女と別れたいきさつを説明した。僕は彼女を愛することがどうしてもできなかったのだといった。それから永沢さんに誘われて知らない女の子たちと次々寝ることになった事情も話した。「いいわけするんじゃないけどc辛かったんだよ」と僕は直子に言った。「君と毎週のように会ってc話をしていてcしかも君の心の中にあるのがキズキのことだけだってことがね。そう思うととても辛かったんだよ。だから知らない女の子と寝たんだと思う」

    直子は何度か首を振ってから顔を上げてまた僕の顔を見た。「ねえcあなたあのときどうしてキズキ君と寝なかったのかと訊いたわよねまだそのこと知りたい」

    「たぶん知ってた方がいいんだろうね」と僕は言った。

    「私もそう思うわ」と直子は言った。「死んだ人はずっと死んだままだけどc私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの」

    僕は肯いた。レイコさんはむずかしいパーセージを何度も何度もくりかえして練習していた。

    「私cキズキ君と寝てもいいって思ってたのよ」と直子は言って髪留めをはずしc髪を下ろした。そして手の中で蝶のかたちをしたその髪留めをもてあそんでいた。「もちろん彼は私と寝たかったわ。だから私たち何度も何度もためしてみたのよ。でも駄目だったの。できなかったわ。どうしてできないのか私には全然わかんなかったしc今でもわかんないわ。だって私はキズキ君のことを愛していたしcべつに処女性とかそういうのにこだわっていたわけじゃないんだもの。彼がやりたいことなら私c何だって喜んでやってあげようと思ってたのよ。でもcできなかったの」

    直子はまた髪を上にあげてc髪留めで止めた。

    「全然濡れなかったのよ」と直子は小さな声で言った。「開かなかったのcまるで。だからすごく痛くて。乾いててc痛いの。いろんな風にためしてみたのよc私たち。でも何やってもだめだったわ。何かで湿らせてみてもやはり痛いの。だから私ずっとキズキ君のを指とか唇とかでやってあげてたのわかるでしょう」

    僕は黙って肯いた。

    直子は窓の外の月を眺めた。月は前にも増やして明るく大きくなっているように見えた。「私だってできることならこういうこと話したくないのよcワタナベ君。できることならこういうことはずっと私の胸の中にそっとしまっておきたなかったのよcでも仕方ないのよ。話さないわけにはいかないのよ。自分でも解決がつかないんだもの。だってあなたと寝たとき私すごく濡れてたでしょうそうでしょう」

    「うん」と僕は言った。

    「私cあの二十歳の誕生日の夕方cあなたに会った最初からずっと濡れてたの。そしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれてc裸にされてc体を触られてc入れてほしいと持ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうしてどうしてそんなことが起こるのだって私cキズキ君のこと本当に愛してたのよ」

    「そして僕のことは愛していたわけでもないのにcということ」

    「ごめんなさい」と直子は言った。「あなたを傷つけたくないんだけどcでもこれだけはわかって。私とキズキ君は本当にとくべつな関係だったのよ。私たち三つの頃から一緒に遊んでたのよ。私たちいつも一緒にいていろんな話をしてcお互いを理解しあってcそんな風に育ったの。初めてキスしたのは小学校六年のときc素敵だったわ。私がはじめて生理になったとき彼のところに行ってわんわん泣いたのよ。私たちとにかくそういう関係だったの。だからあの人が死んじゃったあとではcいったいどういう風に人と接すればいいのか私にはわからなくなっちゃったの。人を愛するというのがいったいどういうことなのかというのも」

    彼女はテーブルの上のワイングラスをとろうとしたがcうまくとれずにワイングラスは床に落ちてころころと転がった。ワインがカーペットの上にこぼれた。僕は身をかがめてグラスを拾いcそれをテーブルの上に戻した。もう少しワインが飲みたいかと僕は直子に訊いてみた。彼女はしばらく黙っていたがcやがて突然体を震わせて泣きはじめた。直子は体をふたつに折って両手の中に顔を埋めc前と同じように息をつまらせながら激しく泣いた。レイコさんがギターを置いてやってきてc直子の背中に手をあててやさしく撫でた。そして直子の肩に手をやるとc直子はまるで赤ん坊のように頭をレイコさんの胸に押しつけた。

    「ねcワタナベ君」とレイコさんが僕に言った。「悪いけれど二十分くらいそのへんをぶらぶら散歩してきてくれない。そうすればなんとかなると思うから」

    僕は肯いて立ち上がりcシャツの上にセーターを着た。「すみません」と僕はレイコさんに言った。

    「いいのよcべつに。あなたのせいじゃないんだから。気にしなくていいのよ。帰ってくるころにはちゃんと収まってるから」彼女はそういって僕に向って片目を閉じた。

    僕は奇妙な非現実的な月の光に照らされた道を辿って雑木林の中に入りcあてもなく歩を運んだ。そんな月の光の下ではいろんな物音が不思議な響き方をした。僕の足音はまるで海底を歩いている人の足音のようにcどこかまったく別の方向から鈍く響いて聞こえてきた。時折うしろの方でさっという小さなあ乾いた音がした。夜の動物たちが息を殺してじっと僕が立ち去るのを待っているようなcそんな重苦しさは林の中に漂っていた。

    雑木林を抜け小高くなった丘の斜面に腰を下ろしてc僕は直子の住んでいる棟の方を眺めた。直子の部屋をみつけるのは簡単だった。灯のともっていない窓の中から奥の方で小さな光がほのかに揺れていたものを探せばよかったのだ。僕は身動きひとつせずにその小さな光をいつまでも眺めていた。その光は僕に燃え残った魂の最後の揺らめきのようなものを連想させた。僕はその光を両手で覆ってしっかりと守ってやりたかった。僕はジェイギャツビイが対岸の小さな光を毎夜見守っていたと同じようにcその仄かな揺れる灯を長いあいだ見つめていた。

    僕は部屋に戻ったのは三十分後でc棟の入口までくるとレイコさんがギターを練習しているのが聴こえた。僕はそっと階段を上りcドアをノックした。部屋に入ると直子の姿はなくcレイコさんがカーペットの上に座って一人でギターを弾いているだけだった。彼女は僕に指で寝室のドアの方を示した。直子は中にいるcということらしかった。それからレイコさんはギターを床に置いてソファーに座りcとなりに座るように僕に言った。そして瓶に残っていたワインをふたつのグラスに分けた。

    「彼女は大丈夫よ」とレイコさんは僕の膝を軽く叩きながら言った。「しばらく一人で横になってれば落ちつくから心配しなくてもいいのよ。ちょっと気が昂ぶっただけだから。ねえcそのあいだ私と二人で少し外を散歩しない」

    「いいですよ」と僕は言った。

    僕とレイコさんは街燈に照らされた道をゆっくりと歩いてcテニスコートとバスケットボールコートのあるところまで来てcそこのベンチに腰を下ろした。彼女はベンチの下からオレンジ色のバスケットのボールをとりだしてcしばらく手の中でくるくるとまわしていた。そして僕にテニスはできるかと訊いた。とても下手だけれどできないことはないと僕は答えた。

    「バスケットボールは」

    「それほど得意じゃないですね」

    「じゃああなたいったい何が得意なの」とレイコさんは目の横のしわを寄せるようにして笑って言った。「女の子と寝る以外に」

    「べつに得意なわけじゃありませんよ」僕は少し傷ついて言った。

    「怒らないでよ。冗談で言っただけだから。ねえc本当にどうなのどんなことが得意なの」

    「得意なことってないですね。好きなことならあるけれど」

    「どんなこと好き」

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