正文 第37节
推荐阅读: 邪王嗜宠:神医狂妃 邪王嗜宠鬼医狂妃 邪王嗜宠:鬼医狂妃 妖孽修真弃少 我寄人间 从今天起当首富 宠妻入骨:神秘老公有点坏 重生之再铸青春 超级修真弃少 修复师 万古第一神 我在坟场画皮十五年 裂天空骑 武神主宰 神医萌宝 重生南非当警察 神道仙尊 妖夫在上
右手の傷が痛んでくるとそんな雨の中庭の風景をぼんやりと眺めた。
僕はまずレコード店で働いているときに手のひらを深く切ってしまったことを書きc土曜日の夜にc永沢さんとハツミさんと僕の三人で永沢さんの外交官試験合格の祝いのようなことをやったと書いた。そして僕はそこがどんな店でcどんな料理が出たかというのを説明した。料理はなかなかのものだったがc途中で雰囲気がいささかややこしいものになって云々と僕は書いた。
僕はハツミさんとビリヤード場に行ったことに関連してキズキのことを書こうかどうか少し迷ったがc結局書くことにした。書くべきだという気がしたからだ。
「僕はあの日――キズキが死んだ日――彼が最後に撞いたボールのことをはっきりと覚えています。それはずいぶんむずかしいクッションを必要とするボールでc僕はまさかそんなものがうまく行くと思わなかった。でもcたぶん何かの偶然によるものだとは思うのだけれどcそのショットは百パーセントぴったりと決まってc緑のフェルトの上で白いボールと赤いボールが音もたてないくらいそっとぶつかりあってcそれが結局最終得点になったわけです。今でもありありと思い出せるくらい美しく印象的なショットでした。そしてそれ以来二年近く僕はビリヤードというものをやりませんでした。
でもハツミさんとビリヤードをやったその夜c僕は最初の一ゲームが終るまでキズキのことを思い出しもしなかったしcそのことは僕としては少なからざるショックでした。というのはキズキが死んだあとずっとcこれからはビリヤードをやるたびに彼を思い出すことになるだろうなという風に考えていたからです。でも僕は一ゲーム終えて店内の自動販売機でペプシコーラを買って飲むまでcキズキのことを思い出しもしませんでした。どうしてそこでキズキのことを思い出したかというとc僕と彼がよく通ったビリヤード屋にもやはりペプシの販売機があってc僕らはよくその代金を賭けてゲームをしたからです。
キズキのことを思い出さなかったことでc僕は彼に対してなんだか悪いことをしたような気になりました。そのときはまるで自分が彼のことを見捨ててしまったように感じられたのです。でもその夜部屋に戻ってcこんな風に考えました。あれからもう二年半だったんだ。そしてあいつはまだ十七歳のままなんだcと。でもそれは僕の中で彼の記憶が薄れたということを意味しているのではありません。彼の死がもたらしたものはまだ鮮明に僕の中に残っているしcその中のあるものはその当時よりかえって鮮明になっているくらいです。僕が言いたいのはこういうことです。僕はもうすぐ二十歳だしc僕とキズキが十六か十七の年に共有したもののある部分は既に消滅しちゃったしcそれはどのように嘆いたところで二度と戻っては来ないのだcということです。僕はそれ以上うまく説明できないけれどc君なら僕の感じたことc言わんとすることをうまく理解してくれるのではないかと思います。そしてこういうことを理解してくれるのはたぶん君の他にはいないだろうという気がします。
僕はこれまで以上に君のことをよく考えています。今日は雨が降っています。雨の日曜日は僕を少し混乱させます。雨が降ると洗濯できないしcしたがってアイロンがけもできないからです。散歩もできなしc屋上に寝転んでいることもできません。机の前に座ってカインドオブブルーをオートリピートで何度も聴きながら雨の中庭の風景をぼんやりと眺めているくらいしかやることがないのです。前にも書いたように僕は日曜日にはねじを巻かないのです。そのせいで手紙がひどく長くなってしまいました。もうやめます。そして食堂に行って昼ごはんを食べます。さようなら」
九
翌日の月曜日の講義にも緑は現れなかった。いったいどうしちゃったんだろうと僕は思った。最後に電話で話してからもう十日経っていた。家に電話をかけてみようかとも思ったがc自分の方から連絡するからと彼女が言っていたことを思い出してやめた。
その週の木曜日にc僕は永沢さんと食堂で顔をあわせた。彼は食事をのせた盆を持って僕のとなりに座りcこのあいだいろいろ済まなかったなと謝まった。
「いいですよ。こちらこそごちそうになっちゃったし」と僕は言った。「まあ奇妙といえば奇妙な就職決定祝いでしたけど」
「まったくな」と彼は言った。
そして我々はしばらく黙って食事をつづけた。
「ハツミとは仲なおりしたよ」と彼は言った。
「まあそうでしょうね」と僕は言った。
「お前にもけっこうきついことを言ったような気がするんだけど」
「どうしたんですかc反省するなんて体の具合がわるいんじゃないですか」
「そうかもしれないな」と彼は言ってニc三度小さく肯いた。「ところでお前cハツミに俺と別れろって忠告したんだって」
「あたり前でしょう」
「そうだなcまあ」
「あの人良い人ですよ」と僕は味噌汁を飲みながら言った。
「知ってるよ」と永沢さんはため息をついて言った。「俺にはいささか良すぎる」
*
電話かかかっていることを知らせるブザーが鳴ったときc僕は死んだようにぐっすり眠っていた。僕はそのとき本当に眠りの中枢に達していたのだ。だから僕には何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。眠っているあいだに頭の中が水びたしになって脳がふやけてしまったような気分だった。時計を見ると六時十五分だったがcそれが午前か午後かわからなかった。何日の何曜日なのかも思い出せなかった。窓の外を見ると中庭のボールには旗は上っていなかった。それでたぶんこれは夕方の六時十五分なのだろうと僕は見当をつけた。国旗掲揚もなかなか役に立つものだ。
「ねえワタナベ君c今は暇」と緑が訊いた。
「今日は何曜日だったかな」
「金曜日」
「今は夕方だっけ」
「あたり前でしょう。変な人ね。午後のcん―とc六時十八分」
やはり夕方だったんだcと僕は思った。そうだcベッドに寝転んで本を読んでいるうちにぐっすり眠りこんでしまったんだ。金曜日――と僕は頭を働かせた。金曜日の夜にはアルバイトはない。「暇だよ。今どこにいるの」
「上野駅。今から新宿に出るから待ちあわせない」
我々は場所とだいたいの時刻を打ち合わせc電話を切った。
dugに着いたときc緑は既にカウンターのいちばん端に座って酒を飲んでいた。彼女は男もののくしゃっとした白いステンカラーコートの下に黄色い薄いセーターを着てcブルージーンズをはいていた。そして手首にはブレスレットを二本つけていた。
「何飲んでるの」と僕は訊いた。
「トムコリンズ」と緑は言った。
僕はウィスキーソーダを注文してからc足もとに大きな革鞄が置いてあることに気づいた。
「旅行に行ってたのよ。ついさっき戻ってきたところ」と彼女は言った。
「どこに行ったの」
「奈良と青森」
「一度に」と僕はびっくりして訊いた。
「まさか。いくら私が変ってるといっても奈良と青森に一度にいったりはしないわよ。べつべつに行ったのよ。二回にわけて。奈良には彼と行ってc青森は一人でぶらっと行ってきたの」
僕はウィスキーソーダをひとくち飲みc緑のくわえたマルボロにマッチで火をつけてやった。「いろいろと大変だったお葬式とかcそういうの」
「お葬式なんて楽なものよ。私たち馴れてるの。黒い着物着て神妙な顔して座ってればcまわりの人がみんなで適当に事を進めてくれるの。親戚のおじさんとか近所の人とかね。勝手にお酒買ってきたりcおすし取ったりc慰めてくれたりc泣いたりc騒いだりc好きに形見わけしたりc気楽なものよ。あんなのピクニックと同じよ。来る日も来る日も看病にあけくれてたのに比べたらcピクニックよcもう。ぐったり疲れて涙も出やしないものcお姉さんも私も。気が抜けて涙も出やしないのよc本当に。でもそうするとねcまわりの人たちはあそこの娘たちは冷たいc涙も見せないってかげぐちきくの。私たちだから意地でも泣かないの。嘘泣きしようと思えばできるんだけどc絶対にやんないもの。しゃくだから。みんなが私たちの泣くことを期待してるからc余計に泣いてなんかやらないの。私とお姉さんはそういうところすごく気が合うの。性格はずいぶん違うけれど」
緑はブレスレットをじゃらじゃらと鳴らしてウェイターを呼びcトムコリンズのおかわりとピスタチオの皿を頼んだ。
「お葬式が終ってみんな帰っちゃってからc私たち二人で明け方まで日本酒を飲んだの升五合くらい。そしてまわりの連中の悪口をかたっぱしから言ったの。あいつはアホだcクソだc疥癬病みの犬だc豚だc偽善者だc盗っ人だってcそういうのずうっと言ってたのよ。すうっとしたわね」
「だろうね」
「そして酔払って布団に入ってぐっすり眠ったの。すごくよく寝たわねえ。途中で電話なんかかかってきても全然無視しちゃってねcぐうぐう寝ちゃったわよ。目がさめてc二人でおすしとって食べてcそれで相談して決めたのよ。しばらく店を閉めてお互い好きなことしようって。これまで二人でずいぶん頑張ってやってきたんだものcそれくらいやったっていいじゃない。お姉さんは彼と二人でのんびりするしc私も彼と二泊旅行くらいしてやりまくろうと思ったの」緑はそう言ってから少し口をつぐんでc耳のあたりをぼりぼりと掻いた。「ごめんなさい。言葉わるくて」
「いいよ。それで奈良に行ったんだ」
「そう。奈良って昔から好きなの」
「それでやりまくったの」
「一度もやらなかった」と彼女は言ってため息をついた。「ホテルに着いて鞄をよっこらしょと置いたとたんに生理が始まっちゃったのcどっと」
僕は思わず笑ってしまった。
「笑いごとじゃないわよcあなた。予定より一週間早いのよ。泣けちゃうわよcまったく。たぶんいろいろと緊張したんでcそれで狂っちゃったのね。彼の方はぶんぶん怒っちゃうし。わりに怒っちゃう人なのよcすぐ。でも仕方ないじゃないc私だってなりたくてなったわけじゃないし。それにねc私けっこう重い方なのよcあれ。はじめの二日くらいは何もする気なくなっちゃうの。だからそういうとき私と会わないで」
「そうしたいけれどcどうすればわかるかな」と僕は訊いた。
「じゃあ私c生理が始まったらニc三日赤い帽子かぶるわよ。それでかわるんじゃない」と緑は笑って言った。「私が赤い帽子をかぶってたらc道で会っても声をかけずにさっさと逃げればいいのよ」
「いっそ世の中の女の人がみんなそうしてくれればいいのに」と僕は言った。「それで奈良で何してたの」
「仕方ないから鹿と遊んだりcそのへん散歩して帰ってきたわ。散々よcもう。彼とは喧嘩してそれっきり会ってないし。まあそれで東京に戻ってきてニc三日ぶらぶらしてcそれから今度は一人で気楽に旅行しようと思って青森に行ったの。弘前に友だちがいてcそこでニ日ほど泊めてもらってcそのあと下北とか竜飛とかまわったの。いいところよcすごく。私あのへんの地図の解説書書いたことあるのよ度。あなた行ったことある」
ないcと僕は言った。
「それでね」と言ってから緑はトムコリンズをすすりcピスタチオの殻をむいた。「一人で旅行しているときずっとワタナベ君のことを思いだしていたの。そして今あなたがとなりにいるといいなあって思ってたの」
「どうして」
「どうして」と言って緑は虚無をのぞきこむような目で僕を見た。「どうしてってcどういうことよcそれ」
「つまりcどうして僕のことを思いだすかってことだよ」
「あなたのこと好きだからに決まっているでしょうが。他にどんな理由があるっていうのよいったいどこの誰が好きでもない相手と一緒いたいと思うのよ」
「だって君には恋人がいるしc僕のこと考える必要なんてないじゃないか」と僕はウィスキーソーダをゆっくり飲みながら言った。
「恋人がいたらあなたのことを考えちゃいけないわけ」
「いやcべつにそういう意味じゃなくて――」
「あのねcワタナベ君」と緑は言って人さし指を僕の方に向けた。「警告しておくけどc今私の中にはねヶ月ぶんくらいの何やかやが絡みあって貯ってもやもやしてるのよ。すごおく。だからそれ以上ひどいことを言わないで。でないと私ここでおいおい泣きだしちゃうし度泣きだすと一晩泣いちゃうわよ。それでもいいの私はねcあたりかまわず獣のように泣くわよ。本当よ」
僕は肯いてcそれ以上何も言わなかった。ウィスキーソーダの二杯目を注文しcピスタチオを食べた。シェーカが振られたりcグラスが触れ合ったりc製氷機の氷をすくうゴソゴソという音がしたりするうしろでサラヴォーンが古いラブソングを唄っていた。
「だいたいタンポン事件以来c私と彼の仲はいささか険悪だったの」と緑は言った。
「タンポン事件」
「うんヶ月くらい前c私と彼と彼の友だちの五c六人くらいでお酒飲んでてねc私cうちの近所のおばさんがくしゃみしたとたんにスポッとタンポンが抜けた話をしたの。おかしいでしょう」
「おかしい」と僕は笑って同意した。
「みんなにも受けたのよcすごく。でも彼は怒っちゃったの。そんな下品な話をするなって。それで何かこうしらけちゃって」
「ふむ」と僕は言った。
「良い人なんだけどcそういうところ偏狭なの」と緑は言った。「たとえば私が白以外の下着をつけると怒ったりね。偏狭だと思わないcそういうの」
「うーんcでもそういうのは好みの問題だから」と僕は言った。僕としてはそういう人物が緑を好きになったこと自体が驚きだったがcそれは口に出さないことにした。
「あなたの方は何してたの」
「何もないよ。ずっと同じだよ」それから僕は約束どおり緑のことを考えてマスターペーションしてみたことを思いだした。僕はまわりに聞こえないように小声で緑にそのことを話した。
緑は顔を輝かせて指をぱちんと鳴らした。「どうだった上手く行った」
「途中でなんだか恥ずかしくなってやめちゃったよ」
「立たなくなっちゃったの」
「まあね」
「駄目ねえ」と緑は横目で僕を見ながら言った。「恥ずかしがったりしちゃ駄目よ。すごくいやらしいこと考えていいから。ねc私がいいって言うからいいんじゃない。そうだc今度電話で言ってあげるわよ。ああそこいいすごく感じる駄目c私cいっちゃうああcそんなことしちゃいやっとかそういうの。それを聞きながらあなたがやるの」
「寮の電話は玄関わきのロビーにあってねcみんなそこの前を通って出入りするだよ」と僕は説明した。「そんなところでマスターペーションしてたら寮長に叩き殺されるねcまず間違いなく」
「そうかcそれは弱ったわね」
僕はまずレコード店で働いているときに手のひらを深く切ってしまったことを書きc土曜日の夜にc永沢さんとハツミさんと僕の三人で永沢さんの外交官試験合格の祝いのようなことをやったと書いた。そして僕はそこがどんな店でcどんな料理が出たかというのを説明した。料理はなかなかのものだったがc途中で雰囲気がいささかややこしいものになって云々と僕は書いた。
僕はハツミさんとビリヤード場に行ったことに関連してキズキのことを書こうかどうか少し迷ったがc結局書くことにした。書くべきだという気がしたからだ。
「僕はあの日――キズキが死んだ日――彼が最後に撞いたボールのことをはっきりと覚えています。それはずいぶんむずかしいクッションを必要とするボールでc僕はまさかそんなものがうまく行くと思わなかった。でもcたぶん何かの偶然によるものだとは思うのだけれどcそのショットは百パーセントぴったりと決まってc緑のフェルトの上で白いボールと赤いボールが音もたてないくらいそっとぶつかりあってcそれが結局最終得点になったわけです。今でもありありと思い出せるくらい美しく印象的なショットでした。そしてそれ以来二年近く僕はビリヤードというものをやりませんでした。
でもハツミさんとビリヤードをやったその夜c僕は最初の一ゲームが終るまでキズキのことを思い出しもしなかったしcそのことは僕としては少なからざるショックでした。というのはキズキが死んだあとずっとcこれからはビリヤードをやるたびに彼を思い出すことになるだろうなという風に考えていたからです。でも僕は一ゲーム終えて店内の自動販売機でペプシコーラを買って飲むまでcキズキのことを思い出しもしませんでした。どうしてそこでキズキのことを思い出したかというとc僕と彼がよく通ったビリヤード屋にもやはりペプシの販売機があってc僕らはよくその代金を賭けてゲームをしたからです。
キズキのことを思い出さなかったことでc僕は彼に対してなんだか悪いことをしたような気になりました。そのときはまるで自分が彼のことを見捨ててしまったように感じられたのです。でもその夜部屋に戻ってcこんな風に考えました。あれからもう二年半だったんだ。そしてあいつはまだ十七歳のままなんだcと。でもそれは僕の中で彼の記憶が薄れたということを意味しているのではありません。彼の死がもたらしたものはまだ鮮明に僕の中に残っているしcその中のあるものはその当時よりかえって鮮明になっているくらいです。僕が言いたいのはこういうことです。僕はもうすぐ二十歳だしc僕とキズキが十六か十七の年に共有したもののある部分は既に消滅しちゃったしcそれはどのように嘆いたところで二度と戻っては来ないのだcということです。僕はそれ以上うまく説明できないけれどc君なら僕の感じたことc言わんとすることをうまく理解してくれるのではないかと思います。そしてこういうことを理解してくれるのはたぶん君の他にはいないだろうという気がします。
僕はこれまで以上に君のことをよく考えています。今日は雨が降っています。雨の日曜日は僕を少し混乱させます。雨が降ると洗濯できないしcしたがってアイロンがけもできないからです。散歩もできなしc屋上に寝転んでいることもできません。机の前に座ってカインドオブブルーをオートリピートで何度も聴きながら雨の中庭の風景をぼんやりと眺めているくらいしかやることがないのです。前にも書いたように僕は日曜日にはねじを巻かないのです。そのせいで手紙がひどく長くなってしまいました。もうやめます。そして食堂に行って昼ごはんを食べます。さようなら」
九
翌日の月曜日の講義にも緑は現れなかった。いったいどうしちゃったんだろうと僕は思った。最後に電話で話してからもう十日経っていた。家に電話をかけてみようかとも思ったがc自分の方から連絡するからと彼女が言っていたことを思い出してやめた。
その週の木曜日にc僕は永沢さんと食堂で顔をあわせた。彼は食事をのせた盆を持って僕のとなりに座りcこのあいだいろいろ済まなかったなと謝まった。
「いいですよ。こちらこそごちそうになっちゃったし」と僕は言った。「まあ奇妙といえば奇妙な就職決定祝いでしたけど」
「まったくな」と彼は言った。
そして我々はしばらく黙って食事をつづけた。
「ハツミとは仲なおりしたよ」と彼は言った。
「まあそうでしょうね」と僕は言った。
「お前にもけっこうきついことを言ったような気がするんだけど」
「どうしたんですかc反省するなんて体の具合がわるいんじゃないですか」
「そうかもしれないな」と彼は言ってニc三度小さく肯いた。「ところでお前cハツミに俺と別れろって忠告したんだって」
「あたり前でしょう」
「そうだなcまあ」
「あの人良い人ですよ」と僕は味噌汁を飲みながら言った。
「知ってるよ」と永沢さんはため息をついて言った。「俺にはいささか良すぎる」
*
電話かかかっていることを知らせるブザーが鳴ったときc僕は死んだようにぐっすり眠っていた。僕はそのとき本当に眠りの中枢に達していたのだ。だから僕には何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。眠っているあいだに頭の中が水びたしになって脳がふやけてしまったような気分だった。時計を見ると六時十五分だったがcそれが午前か午後かわからなかった。何日の何曜日なのかも思い出せなかった。窓の外を見ると中庭のボールには旗は上っていなかった。それでたぶんこれは夕方の六時十五分なのだろうと僕は見当をつけた。国旗掲揚もなかなか役に立つものだ。
「ねえワタナベ君c今は暇」と緑が訊いた。
「今日は何曜日だったかな」
「金曜日」
「今は夕方だっけ」
「あたり前でしょう。変な人ね。午後のcん―とc六時十八分」
やはり夕方だったんだcと僕は思った。そうだcベッドに寝転んで本を読んでいるうちにぐっすり眠りこんでしまったんだ。金曜日――と僕は頭を働かせた。金曜日の夜にはアルバイトはない。「暇だよ。今どこにいるの」
「上野駅。今から新宿に出るから待ちあわせない」
我々は場所とだいたいの時刻を打ち合わせc電話を切った。
dugに着いたときc緑は既にカウンターのいちばん端に座って酒を飲んでいた。彼女は男もののくしゃっとした白いステンカラーコートの下に黄色い薄いセーターを着てcブルージーンズをはいていた。そして手首にはブレスレットを二本つけていた。
「何飲んでるの」と僕は訊いた。
「トムコリンズ」と緑は言った。
僕はウィスキーソーダを注文してからc足もとに大きな革鞄が置いてあることに気づいた。
「旅行に行ってたのよ。ついさっき戻ってきたところ」と彼女は言った。
「どこに行ったの」
「奈良と青森」
「一度に」と僕はびっくりして訊いた。
「まさか。いくら私が変ってるといっても奈良と青森に一度にいったりはしないわよ。べつべつに行ったのよ。二回にわけて。奈良には彼と行ってc青森は一人でぶらっと行ってきたの」
僕はウィスキーソーダをひとくち飲みc緑のくわえたマルボロにマッチで火をつけてやった。「いろいろと大変だったお葬式とかcそういうの」
「お葬式なんて楽なものよ。私たち馴れてるの。黒い着物着て神妙な顔して座ってればcまわりの人がみんなで適当に事を進めてくれるの。親戚のおじさんとか近所の人とかね。勝手にお酒買ってきたりcおすし取ったりc慰めてくれたりc泣いたりc騒いだりc好きに形見わけしたりc気楽なものよ。あんなのピクニックと同じよ。来る日も来る日も看病にあけくれてたのに比べたらcピクニックよcもう。ぐったり疲れて涙も出やしないものcお姉さんも私も。気が抜けて涙も出やしないのよc本当に。でもそうするとねcまわりの人たちはあそこの娘たちは冷たいc涙も見せないってかげぐちきくの。私たちだから意地でも泣かないの。嘘泣きしようと思えばできるんだけどc絶対にやんないもの。しゃくだから。みんなが私たちの泣くことを期待してるからc余計に泣いてなんかやらないの。私とお姉さんはそういうところすごく気が合うの。性格はずいぶん違うけれど」
緑はブレスレットをじゃらじゃらと鳴らしてウェイターを呼びcトムコリンズのおかわりとピスタチオの皿を頼んだ。
「お葬式が終ってみんな帰っちゃってからc私たち二人で明け方まで日本酒を飲んだの升五合くらい。そしてまわりの連中の悪口をかたっぱしから言ったの。あいつはアホだcクソだc疥癬病みの犬だc豚だc偽善者だc盗っ人だってcそういうのずうっと言ってたのよ。すうっとしたわね」
「だろうね」
「そして酔払って布団に入ってぐっすり眠ったの。すごくよく寝たわねえ。途中で電話なんかかかってきても全然無視しちゃってねcぐうぐう寝ちゃったわよ。目がさめてc二人でおすしとって食べてcそれで相談して決めたのよ。しばらく店を閉めてお互い好きなことしようって。これまで二人でずいぶん頑張ってやってきたんだものcそれくらいやったっていいじゃない。お姉さんは彼と二人でのんびりするしc私も彼と二泊旅行くらいしてやりまくろうと思ったの」緑はそう言ってから少し口をつぐんでc耳のあたりをぼりぼりと掻いた。「ごめんなさい。言葉わるくて」
「いいよ。それで奈良に行ったんだ」
「そう。奈良って昔から好きなの」
「それでやりまくったの」
「一度もやらなかった」と彼女は言ってため息をついた。「ホテルに着いて鞄をよっこらしょと置いたとたんに生理が始まっちゃったのcどっと」
僕は思わず笑ってしまった。
「笑いごとじゃないわよcあなた。予定より一週間早いのよ。泣けちゃうわよcまったく。たぶんいろいろと緊張したんでcそれで狂っちゃったのね。彼の方はぶんぶん怒っちゃうし。わりに怒っちゃう人なのよcすぐ。でも仕方ないじゃないc私だってなりたくてなったわけじゃないし。それにねc私けっこう重い方なのよcあれ。はじめの二日くらいは何もする気なくなっちゃうの。だからそういうとき私と会わないで」
「そうしたいけれどcどうすればわかるかな」と僕は訊いた。
「じゃあ私c生理が始まったらニc三日赤い帽子かぶるわよ。それでかわるんじゃない」と緑は笑って言った。「私が赤い帽子をかぶってたらc道で会っても声をかけずにさっさと逃げればいいのよ」
「いっそ世の中の女の人がみんなそうしてくれればいいのに」と僕は言った。「それで奈良で何してたの」
「仕方ないから鹿と遊んだりcそのへん散歩して帰ってきたわ。散々よcもう。彼とは喧嘩してそれっきり会ってないし。まあそれで東京に戻ってきてニc三日ぶらぶらしてcそれから今度は一人で気楽に旅行しようと思って青森に行ったの。弘前に友だちがいてcそこでニ日ほど泊めてもらってcそのあと下北とか竜飛とかまわったの。いいところよcすごく。私あのへんの地図の解説書書いたことあるのよ度。あなた行ったことある」
ないcと僕は言った。
「それでね」と言ってから緑はトムコリンズをすすりcピスタチオの殻をむいた。「一人で旅行しているときずっとワタナベ君のことを思いだしていたの。そして今あなたがとなりにいるといいなあって思ってたの」
「どうして」
「どうして」と言って緑は虚無をのぞきこむような目で僕を見た。「どうしてってcどういうことよcそれ」
「つまりcどうして僕のことを思いだすかってことだよ」
「あなたのこと好きだからに決まっているでしょうが。他にどんな理由があるっていうのよいったいどこの誰が好きでもない相手と一緒いたいと思うのよ」
「だって君には恋人がいるしc僕のこと考える必要なんてないじゃないか」と僕はウィスキーソーダをゆっくり飲みながら言った。
「恋人がいたらあなたのことを考えちゃいけないわけ」
「いやcべつにそういう意味じゃなくて――」
「あのねcワタナベ君」と緑は言って人さし指を僕の方に向けた。「警告しておくけどc今私の中にはねヶ月ぶんくらいの何やかやが絡みあって貯ってもやもやしてるのよ。すごおく。だからそれ以上ひどいことを言わないで。でないと私ここでおいおい泣きだしちゃうし度泣きだすと一晩泣いちゃうわよ。それでもいいの私はねcあたりかまわず獣のように泣くわよ。本当よ」
僕は肯いてcそれ以上何も言わなかった。ウィスキーソーダの二杯目を注文しcピスタチオを食べた。シェーカが振られたりcグラスが触れ合ったりc製氷機の氷をすくうゴソゴソという音がしたりするうしろでサラヴォーンが古いラブソングを唄っていた。
「だいたいタンポン事件以来c私と彼の仲はいささか険悪だったの」と緑は言った。
「タンポン事件」
「うんヶ月くらい前c私と彼と彼の友だちの五c六人くらいでお酒飲んでてねc私cうちの近所のおばさんがくしゃみしたとたんにスポッとタンポンが抜けた話をしたの。おかしいでしょう」
「おかしい」と僕は笑って同意した。
「みんなにも受けたのよcすごく。でも彼は怒っちゃったの。そんな下品な話をするなって。それで何かこうしらけちゃって」
「ふむ」と僕は言った。
「良い人なんだけどcそういうところ偏狭なの」と緑は言った。「たとえば私が白以外の下着をつけると怒ったりね。偏狭だと思わないcそういうの」
「うーんcでもそういうのは好みの問題だから」と僕は言った。僕としてはそういう人物が緑を好きになったこと自体が驚きだったがcそれは口に出さないことにした。
「あなたの方は何してたの」
「何もないよ。ずっと同じだよ」それから僕は約束どおり緑のことを考えてマスターペーションしてみたことを思いだした。僕はまわりに聞こえないように小声で緑にそのことを話した。
緑は顔を輝かせて指をぱちんと鳴らした。「どうだった上手く行った」
「途中でなんだか恥ずかしくなってやめちゃったよ」
「立たなくなっちゃったの」
「まあね」
「駄目ねえ」と緑は横目で僕を見ながら言った。「恥ずかしがったりしちゃ駄目よ。すごくいやらしいこと考えていいから。ねc私がいいって言うからいいんじゃない。そうだc今度電話で言ってあげるわよ。ああそこいいすごく感じる駄目c私cいっちゃうああcそんなことしちゃいやっとかそういうの。それを聞きながらあなたがやるの」
「寮の電話は玄関わきのロビーにあってねcみんなそこの前を通って出入りするだよ」と僕は説明した。「そんなところでマスターペーションしてたら寮長に叩き殺されるねcまず間違いなく」
「そうかcそれは弱ったわね」